50年のあゆみ
CREATION OF 50 YEARS
2016 個展あいさつ
2016 Solo exhibition greeting
新作と旧作そして50年間の歩みを「原形本体-楕円界 松尾光伸展」として、中国で初めての個展が深圳で開催されることになった。今回の約20点の発表作は、フラクタル立体を組み合わせて無限に造形できる作品を始め、ほとんどの作品がこれまでにない新技法でつくられている。これらの作品は特に精度が要求される形状のため、先端の造形技術として登場した3Dプリンターで躯体をつくることになった。次にアジアを代表する造形芸術の一つで五千年以上の歴史を持つ漆芸の伝統技術で、中日専門家の協力を得て完成した。また画廊の外部空間には、風で動く作品「風の舞」が軽快にそして優雅に動いている。吹抜け空間にも映像による先端環境芸術として登場したプロジェクションマッピングと、レリーフを組合せた作品が新しい視覚体験を与えている。
今回の個展では1965年末に最初の作品を制作してから、エポックとなる50年の軌跡を見直すことになり、楕円形をモチーフとした最初の作品がその後の創作活動を方向付けていることが明らかになった。
当時東京芸術大学生であったが、入学前父が他界していたのでアルバイトをしなければならなかった。仕事先の建築事務所員を通して、クリスマスに行なう東京大学男性合唱団発表会ポスターのデザインの依頼があり原案の作成に取り掛かった。その頃はガウディの有機的な空間とエッシャーのトポロジカルな版画、それにバザレリーの楕円構成の絵画などに関心があり、洋書専門店丸善に海外より画集を取り寄せ注文し感銘を受けていた。他のアルバイト先では工業製品の分解図を楕円定規で等角投影図に描いていたが、楕円形のシステマティックな変化に大きな可能性を感じていた。これらの状況の中で完成したのが最初の作品「周期空間-CYCLE SPACE」だ。この作品について今自身で分析してみると、正円から直線迄無限にあるとされる楕円形の変化は視覚的には面の方向性を表現することができ、大小の連続的変化で前後の距離を感知することができる。つまりこのたった二つの要素だけで空間と立体を表現することが可能であることを、この1ヶ月という短い作品制作期間中に察知していたことになる。その後の創作研究に一貫して見られる単位による構成と分割、内部空間と外部立体造形等の、後に「空間解剖学」と称した造形作法が既に最初の作品に含まれていることが50年を経て改めて認められるのである。
これまで 創作活動の大きな転機が三回あったが、それは長期の海外滞在であったと思われる。第一回目は1966年当時、上石神井の芸大学生寮の近くにお住いの作家檀一雄先生が紀行文を書くため、車で2年間南米旅行計画を実施されることになり、スタッフとして同行することになった。大学の末田利一教授から2年間の休学許可を得て、2ヶ月に亘るアジア、インド洋、アフリカ喜望峰周りでブラジルへ向かう最後のオランダ貨客移民船に長男太郎君と作家志望のS氏と共に乗り込んだ。 しかし積み込んだ車がサントスの税関で入管許可が得られないまま、結局壇一雄先生は来られなかった。そこで在伯日本人建築家の紹介を得て、サンパウロ大学建築学部長のジョアキン・ゲデス博士の事務所に勤務することになり約2年間ブラジルに滞在した。
この間1ヶ月以上の休暇を2回もらい、ほぼブラジル全土を単身旅行した。最初の旅行はカーニバルの直前、東北部の古都プリマカピ(第一首都)レシーフェへ向かった。次にカーニバル真只中で街中が沸騰していたベラカピ(美都)リオデジャネイロへ移った。その様子を描いたスケッチが数枚残っている。その後はジャングルをジープやトラックの荷物の上で何日も走って漸く着いた街ノバカピ(新首都)ブラジリアであった。丁度文化センターの完成式が行われていてその会場で設計者のオスカー・ニーマイヤー博士に遭遇した。彼が「君は6ヶ月でよくポルトガル語を話せるようになったね。」と言われたので、すかさず「ブラジリアは6年でよくここまで出来ましたね。」と会話を交わしたことを今でも鮮明に思い出す。
2回目の旅行では、アマゾン川河口のベレンまでバスで終夜走って3日間かかった。ベレンからマナウス迄甲板で2週間ハンモックに揺られながらの広大なアマゾン川の船旅も強烈に印象に残っている。この旅行中、訪れた爬虫類研究所で観察した爬虫類の卵の多様な楕円形態が心象に焼き付いた。帰国し復学後、暫くしてこの体験が最初の立体作品として実現した。その後楕円をモチーフとする立体作品に取り組み、最初の作品発表の機会を得たのはそれから5年後であった。
第二回目は1980年に文化庁芸術家在外研修員として9ヶ月間家族を伴ってのアメリカボストン滞在と、引き続き単身での3ヶ月間のヨーロッパ研修旅行だった。この経緯について少し触れたい。1977年の最初の東京日本橋南画廊での発表作品「OVALOGY 12」が最年少で文化庁買い上げ賞、翌78年神戸須磨離宮公園現代彫刻展で朝日新聞社賞、そして79年第一回ヘンリームーア大賞展で優秀賞を受賞した。南画廊の発表から2年程の短期間で、本来美術団体からの推薦が必要で各分野1名だけが選抜される制度であったが、選考候補者に特別個人で推薦枠を持つ堀内正和先生の推薦で選ばれた。最終選考条件として事前に研修先からの受け入れ認可証が必要となった。大学卒業後勤めた財団法人柳工業デザイン研究会柳宗理先生に、バウハウスの卒業生で後に初代のウルム造形大学学長を務めた巨匠マックス・ビル先生への紹介をお願いした。柳先生はウルム造形大学で客員教授を務めたことから彼とは懇意であった。しかし高齢ということで実現しなかったが、丁重な返信を頂き自身の宝としている。当初よりヨーロッパの次の研修先としてアメリカを考えていたので、ハーバード大学視覚芸術センターの片山利弘先生に研修受け入れの件を相談した。以前個展の作品に感銘を受けたので、アメリカへ来る機会があったら是非ボストンへ寄るようにとの彼からの電話を思い出したからである。審査会の最終面接当日の早朝に漸く大学から研修受け入れ認可証が届いた。そしてこの日の面接で最終数名の候補者から一人に選ばれる幸運に預かることが出来た。この1年間の活動は「文化庁芸術家在外研修員報告書」に詳しいのでご覧頂きたい。帰国後1984年に東京から三重県鈴鹿山麓へ移り、豊かな自然の中にアトリエを開設した。それからの20年間を作品制作に没頭し、全国各地に多くのパブリックアートとして作品を設置することが出来た。
第三回目は2004年から現在に至る中国滞在である。中国へ移る迄に10年間の基礎造形学会での活動経緯があった。1977年最初の南画廊での個展で知り合い、時々連絡を取り合っていた故文教大学朝倉直己教授が会長を務める基礎造形学会の神戸大会への参加を勧められ、参加して入会した。翌年の大会を四日市で開催することを提案して認められ主催したことから、その後の学会活動に幹部として参加していた。
1998年に中国広州美術学院でのアジア大会で学会会長に選ばれた。2年間の在職中に、朝倉先生と共にアジア基礎造形連合学会(日本、中国、韓国、台湾)を設立し、朝倉会長、松尾事務局長体制で連合学会活動を開始した。2000年第一回大会を岐阜で、第2回を韓国ソウルで翌2001年に開催した。
2003年第3回台湾台南大会を目前に朝倉会長が交通事故で急逝されたが、次の大会を朝倉会長が希望していた上海で開催出来るよう、サーズの猛威の中、北京、天津、上海を訪問して準備した。台湾大会開催を同年事務局長として支援し、2005年次の上海大会準備のため会場となる上海第二工業大学へ招聘教授として勤務することになった。
2008年にはこの大学に2点のモニュメントを制作した。また北京オリンピック開催記念彫刻制作者として、20名の海外招待作家の一人に選ばれ作品を設置した。隣に設置された中央美術学院城市設計学院副院長王中先生より翌2009年に招聘され、北京へ移り今日に至っている。
中国での新たな分野での活動は美術大学での造形教育である。それまで日本の大学に所属しての授業は経験していなかったが、ハーバード大学での客員芸術家としての滞在経験や日本基礎造形学会、アジア基礎造形連合学会での運営幹部としての活動や三重県で一般市民を対象とする「みえアートカレッジ」を主宰する等、造形教育に関する経験は少なからずあった。また中国で主に担当する学生の専攻は長年取り組んできたパブリックアートであることから、この造形教育の分野でも新しい抽象造形の教育プログラムを提供することが出来たと思う。現在、中国で新しく展開しつつあるのがシステム造形である。「情報造形」と命名したこの造形概念や教育内容については、基礎造形学会での発表論文をご覧頂きたい。今回の発表では最新作のフラクタル作品のみの発表としており、「情報造形」については近く改めて発表の機会を持つことにしている。今後はこれまで20年以上に亘り取り組んできた芸術を医療福祉に活かす「HEALTHCARE ART」の活動に、この「情報造形」をモチーフとして取り組んで行きたい。次回の発表は高齢者や障がいを持つ人達、幼児、造形教育関係者等多くの人が参加するイベント形式の発表で、各地での巡回展を計画している。
これまで設置した作品制作の過程においては、発想と造形は作家自身で取り組むことであるが、パブリックアートとしての実制作では、多くの関係者や専門家にお世話になることが多かった。どの作品もそれぞれの場面で関わりを持った人々との記憶は鮮明であり、協力に感謝している。
最後に今回の個展の開催にあたり、まず主催者で芸術空間1618のオーナー黄煜桐女史とスタッフの皆さん、本展の企画者で中国を代表する彫刻評論家の孫振華教授、そして文章を寄せて頂いた清華大学美術学院建築環境デザイン研究所所長 陸志成教授に敬意を表し、感謝を申し上げたい。次に今回制作に関わった漆芸家の鵜飼敏伸氏と教え子であり中央美術学院城市設計学院の卒業生で制作に協力してくれた大連の唐江吟君とスタッフの皆さん、プロジェクションマッピングを担当した教え子のニューヨーク視覚芸術学院大学院生曹雨西君、又日本と中国の連絡係りを担ってもらった伊勢の村田幸男氏、そしてこれ迄長い間支えてくれた妻の澄子とオランダから映像を通して励ましてくれた長女悠、夫のマルセル、いつも癒してくれる孫娘の蘭奈、中国での活動の全てをマネジメントしてくれている次女麗に改めて感謝を述べると共に、多くの関わって下さった方々に厚くお礼申し上げたい。
松尾光伸
2016年3月19日