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文化庁芸術家在外研修員研修報告
The Research Report

1982 文化庁文化部芸術課 発行

1982 Bureau of Culture Department of Culture Art Course

Ⅰ 研修題目

彫刻による都市景観の活性化の研修

 

Ⅱ 研修方法

  1. 米国において彫刻家が都市景観や建築の計画にどのように参加しているかその実績と実現の過程を視察研修する。

  2. イタリアを中心としてヨーロッパ各都市を旅行し、都市と彫刻の源泉をさぐる。

Ⅲ 研修日程

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Ⅳ ボストンハーバード大学視覚芸術センター(カ—ペンターセンター)での研修

 家族とともに降り立ったボストン空港は、10月初旬だというのにコートなしでは肌寒いくらいだ。ひとまず落ち着いたダウンタウンのホテルの周辺は重厚なレンガの街並みと再開発で取り壊し中のスラムが背中合わせのオールドボストンと呼ばれる地区だった。ビルの影を映して流れるチャールズ河の対岸は、ハーバード大学とマサチューセッツ工科大学のキャンパスである。

 一週間ほどホテル滞在の後、大学都市に隣接する住宅地区にアパートを決めて移った。子供の小学校のことや大学への交通の便、治安などを優先して、半地下で相当老朽化しており不満であったが、ほとんどのアパートが新学期の始まる前の8月中に決まってしまい、高価な所か、多少難のなる所しか残っていない状況では仕方なかった。ようやく生活のリズムが出来た頃には、秋は深まり樹木はすっかり紅葉し、ボストンが最も美しいこの季節に全米から訪れる観光客や学生達でキャンパスや街路は活気にあふれ、乾いて澄みきった風景の中にいることの緊張や違和感も薄らいでいた。

 今回の研修先であるカーペンターセンターは、数十の校舎や研究所といくつかの公園、そして網の目状の街路を擁する広大なハーバード大学のキャンパスのほぼ中央に位置し、東洋美術のコレクションで知られるフォッグ美術館に隣接し、巨匠ル・コルビジェの設計した建築作品として名高い。建物全体が視覚環境芸術デザイン学部の教育施設としてだけでなく、企画展や公開レクチャー等、キャンパス全体の文化施設を兼ねており、各々の専門分野に偏りがちな大学内の相互コミュニケーションの一端を担う開かれた施設といえよう。ハーバードのキャンパス全体が年中無休といわれ、真夜中を過ぎても煌々と明るい窓もあり世界の学問のメッカにふさわしい活気と緊張に満ちている。

 カーペンターセンターの教職員の中で、客員芸術家として滞在期間中にお世話になるディレクターをはじめ、事務局関係者や建築、彫刻の教授等に一通り面会し、作品の紹介や交流を終えた頃には、クリスマスの休暇が間近く、初めて迎える厳しい北国の冬がすっぽりとキャンパス全体を覆いはじめていた。

  この頃迄はむしろセンター外の方が研修成果があったように思われた。質量共に世界一の東洋美術のコレクションを誇るボストン美術館をはじめ、幾つかの美術館を訪れて、静かな展示室や資料室で十分の時間を過ごすことが出来た。

 またボストン在住のアーティストとの交流の機会も幾つか持つことが出来た。そのひとつはマサチューセッツ工科大学にアートとテクノロジーの融合をテーマとする視覚芸術センターがあり、客員フェローとして所属のフェローアーティストとの交流や授業参観等の機会を得たことだった。もうひとつはアートウィークと称して、ダウンタウンのロフトに集中する若いアーティスト達が年に1度か2度ブロック毎にスタジオを一般市民に公開し、展示した作品をベースにコミュニケーションを図るという日本では見られない催しに出会ったことだ。港湾一帯に建ち並ぶ老朽化した倉庫ビルの各フロアが多少手を加えられ、アーティスト達の住居やスタジオになっている。一巡した限りではほんの一握りの作家を除いて新しい創造性を感じさせる作品には出会わなかった。これはボストンの中心街に軒を並べる画廊を覗いた時も同様の印象を受けていたのでさほど失望もしなかったことだが。

 感覚的なことより知的なことにより関心を持っているのがボストン市民の特性であるといえよう。 米国で最も歴史があり、あらゆる分野で指導的立場にあるボストンの印象が、ヨーロッパ的だとして愛される反面、しばしば保守的だといわれていることも理解できるような気がしてきた。しかし一方では、広大なキャンパスに溢れる全米から選りすぐった学生や研究者、ダイナミックなダウンタウンの再開発等の印象からは、常に時代のフロンティアたらんとするボストニアンの意気込みと可能性を充分に感じることもできる。

研究テーマである“彫刻による都市景観の活性化”が上記のような環境の中で予定期間内に果たしてどの程度自分なにリ納得できる成果が得られるのか不安と期待を残したまま、クリスマス休暇を家族と共に親しい友人宅で過ごすべく、ディープサウスと呼ばれるテネシーのノックスビルへ向った。

○制作と発表

 ボストンの冬は予想以上の厳しさで、-15℃を越える日もある。大雪の日でさえも大学は平常に近い活動がなされている。カーペンターセンターも全館暖房完備でワークショップでの制作に支障はない。機械類や工具類の使用法や特性等日本とは逆使いするものが多いが、スタッフとも気心が知れてきたこともあって、具体的なレベルでの意見交換や協力が得られるようになってきた。同学部の教育内容はバウハウスの造形理念をベースとしている。会話力が充分であるとはいえないにもかかわらず、私も共通する教育を受けていたこともあって、享受や学生達とのコミュニケーションには不便を感ずることは少なくなってきた。彫刻や造形を指導しているこれらの教授陣は、同時に作家としても第一線で活動している。折から進行中の建築空間の内外に設置される大型の作品の制作プロセスを見せてもらう等参考になることも多かった。

 私が持ち運んだエスキース・モデルや作品の写真を、機会をみて一般に紹介したいというディレクターの意向も受けて、私は年間を通して企画展示につかわれている1階ホールにおける展示の構想を練っていた。単なる作品モデルの展示というだけにとどまらず、この空間との関連を持つ作品を試みたいと考えるようになった。

 私はこの建物の建築上の特性ともいえる列柱がつくり出す空間に強い印象を受けていたので、原案として持っていた連続して変化する楕円柱をこのホールに並列の状態で構成するという案へ発展させてみた。ホールの正面の真紅の壁と四方の円柱、天井は4米もあり、床にはコルビジェの創作によるモデュールが描かれてある。この中心線に沿って10本の楕円柱を並べ「オーバルモデュラー」と題する案を、スケッチや模型で関係者に提示したところ、好評を得たので早速準備にとりかかることになった。

素材にはコンクリートの空間との対比と制作上の便から、木材を選んだ。調べてみると米国にも日本でブロンズの木型に使用する姫小松に似たシュガーパインという米松材があり、これを使用することにした。高価で相当量必要なこともあって、センターの協力を得て買付けることができた。

 制作には、ワークショップの一角を専用スペースとして、3ヶ月を要したが、この間には実に様々な体験をすることになった。センター内での複雑な人間関係や暖房のことで大家ともめ、厳しい寒さの中で移転する等心労が絶えなかった。しかし幸い健康には恵まれたので、体力の要る仕事にも堪えることができ、ほぼ予定通りの完成へ近づくことが出来た。

この頃には中庭をはさんで向い側の教室の彫刻科の学生達も、私が仕事を終える遅い時間迄競って課題に専念するようになり、活気が出てきたと関係者は喜んでいた。新作の他に今迄の作品のモデルや写真やレプリカ(複製)等細かく気を配ることも多く、最後の追い込みには学生や日本人の友人達の手も借りることになってしまった。彼等の熱心さにセンターの関係者も、このチームワークの良さと勤勉さが今日の日本の繁栄の要因であろうかと驚いていた。

 オープニングにはディレクターをはじめセンター総出で、招待の方々を接待していただいた。私の家内や友人の奥さん方で用意した日本料理も好評で、盛大なオープニングパーティとなり、短いようで長く感じられた数ヶ月の労を忘れ、ひとつのことを完遂した解放感に浸ることができた。また人々の作品への反応は私としても興味あるものだった。コンクリートと対比する柔らかい素木の自然観が新鮮だったとみえて、作品に触れて木肌や楕円柱の変化するカーブを確かめたり、動きまわっては全体のスペースとの関係や視点による変化を追う等、積極的に作品を鑑賞する彼等に、日本の鑑賞者との違いを感ぜずにはいられなかった。また並べられたエスキース・モデルや写真等から共通する概念やシステムを見つけ出して強い感心を示していた建築家もあった。

 その頃ボストンではダンスのシンポジウムが開催中で、連日各劇場で多くのプログラムが催されていたが、あるモダンバレエのカンパニーより、この作品とのダンスの催しを試みたいとの申し出がある等(これは一週間後に実演され、フィルムに収められた)、他の分野から感心が持たれた。会期は2週間程であったが、多くの反響が事務局へ寄せられたそうで、ディレクターをはじめ関係者も満足されたようであった。初めて海外で制作し発表の機械を持てたことに感謝し、御世話になったセンターへの御礼として作品の寄贈を申し出ると、責任者達は大変喜んでこれを受けられた。センターのワークショップで制作した客員芸術家はあまり例がないそうで、これからも折を見てホールに展示したいとのことであった。

 ボストンにしばらく住んでみて感じたことだが、日本社会の経済力や先端の工業技術力には強い関心と豊富な知識を誇るボストンの人々もこと文化のこととなると、東洋文化の一端を担う日本の伝統文化が今なお生活文化として続いているのかという認識しか持ってないようだ。このような状況の中で、カーペンターセンターは時折日本の映画やレクチャー等を催して日本文化の紹介に一役買ってはいるが、日本から持ち込まれる資料や講演内容が相変わらず伝統文化の域を出ないのは残念なことだ。彼等は自らの社会体験で熟知している工業社会と優雅な日本の伝統文化がオーバーラップして理解に苦しんでいる。テレビで時折紹介されてはいるものの、日米相互間の理解が必要なときだけに地道な紹介が必要と考える。カーペンターセンターのように米国社会の文化面で影響力を持つ施設は、全米には数多くみられると思われるので、このような機関を通じて、もはや米国では一般教養にもなっている、様式としての日本の伝統文化に限らず、現実の日本社会を構成して動いている文化を紹介する試みが増えてもよいのではないか、と考えるようになった。

○米国各都市の研修旅行

 米国滞在中のほとんどの時間とエネルギーを東部のボストンに住んで制作に専念していたので、広大な米国の各都市を十分に旅行できたとは思えないが、研修のテーマにとって興味あるいくつかの都市は訪れることができた。

 滞在期間中前後して訪れたニューヨークがなんといっても圧巻であった。折から建築ラッシュで、今なお大きく変貌を続けるニューヨークのダイナミックなエネルギーに興奮した。合わせて3週間程の滞在では旅行者としての印象の域を出ないが、他の都市とは全く異質の魅力と強いインパンクトを感じた。

 ここでは彫刻も美術館に収蔵展示されているだけでなく、街角にあって都市景観の一部となり、ドライなビルの谷間の空間を活性化している。ディテールの単調化でますますスケール感を失っていく高層建築と、ストリートの人々を結ぶ物理的かつ心理的スケールとして機能し、新しい時代のメッセージを放って存在感がある。この傾向は訪れたほとんどの都市に見られたが、やはりニューヨークの印象が強かった。しかし他の都市でもそれぞれに都市の性格にあった彫刻による景観の活性化に工夫がなされていた。

 作品の中で最も感動したのは中部の中心都市シカゴにあるピカソとカルダーの大彫刻であった。高層ビルの谷間に今世紀の巨匠達が見事な空間芸術を展開している。女の顔と題するピカソの原作から巨大スケールに拡大された作品は、厚さ10cmもある耐錆鋼板で出来ており、素材の重量感とピカソ独特の強いフォルムが空間に描き出すシルエットに、観る人はすい寄せられ呑み込まれてしまう。受ける感動は生の讃歌ともいえる躍動感で、彫刻を透して見える空やビルの印象も位置によって変化し、いつまでもあきることがない。またアメリカが生んで、現代彫刻史大きな足跡を残したカルダーのフラミンゴと題する大彫刻も、数ブロック離れた広場の中央に舞い降りたようにある。彼の作品の系列中でスタビルと呼ばれるこの作品は、鋼板で巨大な 色のアーチをかたちづくり、取り囲む高層ビルの窓ガラスに優雅な姿を映している。広場の人々の流れは彫刻に妨げられることなく生き生きとしており、軽快で暖い空間は個性と充実に満ちていた。

 これ等の作品に共通している、限界に近いスケール、最高の質と内容、そしてロケーション等は、米国でも数少ない例であるから日本の現状とは比べようもないが、都市空間の成り立ちから異なる日本では可能性が全くないと言ってしまうのも残念だ。一方西海岸の歴史ある都市サンフランシスコのエンバーカデロセンター再開発の成果の中にも、彫刻が環境づくりに積極的に組み込まれ、単調になりがちな街のランドマークとして機能しているのが見られた。このような大型の商業施設には、日本でも最近一部に同じ試みの傾向が出てきているが、ややもすると容易にパターン化しやすい日本の社会体質の中で、質を維持し新しいジャンルとしての可能性を追求していくには、作家の側にもそれなりの自覚と努力が必要であろう。

 広大なアメリカで都市よりももっと感動させられたのはその大自然である。ここでは滞在の終りに訪れた、ニューヨークから車で一時間程の湖畔にあるストームキング野外彫刻センターについてその印象を書いておきたい。

 おそらく野外彫刻美術館としては世界で最も広い面積を有すると思われるこの彫刻センターは、湖畔からなだらかに広がる、ビロードの草原に被われたいくつかの丘を敷地として、美しい大自然のパノラマのあちこちに初夏の陽差しを浴びて、威圧感もなく人と自然の中間物として存在している。アメリカを代表する作家達の作品は、美術館や街角にあるのとは違って、物質感が弱められ、より鮮明に作品の核ともいえるコンセプトが把握できる。作家の資質がここでは野ざらしというか、苛酷な自然の試練に耐えている。彼等の資質の中に、大自然と闘ってつくり上げてきた米国社会の工人としての強い意志力を感じた。日本の工人のものつくりは、ろくろにみられるように求心的であるのに対して、彼等のそれは遠心的といえよう。日本が木の文化、ヨーロッパが石の文化、そして米国が鉄の文化といってしまうのは短絡に過ぎるかも知れないが、これらの作品が語っているのは、砂漠の中を西部に向けて伸びていった鉄道のように、自然と闘い共存する開拓者の自然に対するナイーブな感性と、したたかな腕力と知性であった。

 これ等の作品の中にイサム・ノグチ氏の作品もあった。中央の丘の頂きに桃太郎と題し、巨大な自然石を真二つに割り、ポッカリとした洞穴を持つ石組の作品で、子供達が楽しそうに遊んでいた。日本で制作して運び込んだといわれるこの作品を観ていると、自然に対する日本人の資質が現れて他の作品とは異質の空間を創り出している。作品は遠心的に空間へ広がるのではなく、丘に埋もれていた岩が露出したように、大地へ吸い込もうとする求心的な空間である。洞穴へ身を委ねて心地よさそうにしている子供達は、この作品の持つ自然への優しさの資質を感じとっているのであろう。

 ギリシャから持ち運ばれたという大理石の7本の列柱が青空を背景としていたり、木陰にブロンズの像が佇んでいたり、彫刻の多様な領域を最高の質と演出で展開しているこのセンターに一日を通して、9ヶ月間の米国滞在中に研修テーマとしていた都市と彫刻からはなされて、自然と彫刻について思いをめぐらした。

○ヨーロッパ各都市の研修旅行

 米国での研修を終え、単身ヨーロッパへ向ったのは研修期間を3ヶ月残した6月半ば過ぎであった。前年にもイタリアのローマと南部を旅行したこともあり、またそれ以前にも西ヨーロッパ諸国を一通り観て歩いたこともあって、今回は違った角度からアプローチしたいと考えていた。3ヶ月という期間は一ヶ所に止まっての研修には中途半端で、旅行を続けるには長すぎると思われた。日本からの短期旅行ではなかなか行けそうにない所をも訪れたいと希望していたのだが、幸い前年お会いした建築家マンジャロッティ氏の御好意で、ミラノを拠点とすることによって期間中に4回の旅行が可能となった。

 イタリアにルネッサンス美術の華を咲かせたフィレンツェをはじめとする中世都市を歴訪し、ギリシャにその原点を訪ねるいわゆる古美術巡礼が主たる研修旅行であった。そしてそれに加えて、明晰で構築的な西欧文化の中で異端といわれる幻想の建築家がガウディの作品をスペインに訪れること、またトルコの奥深くカッパドキアの遺跡を訪れて、前年訪れた南伊プーリア地方のアルベロベッロとの共通性を探ることもこの機会に実現できた。最後にはミラノを発って日本への帰路、西ヨーロッパの国々をいくつか訪れて、現代美術の情況にも多少触れることができた。

 短期間ではあったが、これ等の旅行でヨーロッパ文化を鳥瞰的に観ることができたように思う。国土は広大であっても点的分布に過ぎないアメリカの都市文化や、密度はあっても均一化した日本とも異なり、ヨーロッパ文化はその全土に時間と空間をびっしり埋めつくす密度を持ちながら、しかも多様である。しかし多様でありながら、すべてはキリスト教というひとつの思想に立っている。今日の国際社会では、確かに経済力や技術力の点から見れば、日本や米国や西ドイツ等の先端工業国が他を圧していることは明白である。しかしよくいわれることであるが、国民の生活文化の質的な面でみるとかならずしもそうとばかりはいえないであろう。ヨーロッパでは市民生活が固有の生活文化として歴史的につながっており質的な断絶はみられない。数百年以上を耐えて残ってきた中世都市においても、訪れてみると、続けられている生活は活気があり魅力的でしかも豊かな精神性を感じさせた。いずれにしても未曾有の文化を創り上げたヨーロッパ世界は、これからもその普遍的な価値を持って世界の文化に影響を与え続けるであろう。

 今回の旅行にはヨーロッパ美術史の流れの中で、私自身が制作上感心を持っている円柱の形態がどのように扱われているかを観ることも含まれていた。ギリシャ時代にはすでに様式化され、パルテノン神殿において至高の造形美と空間美に至った円柱も、その後アーチ構造が主流となっていく過程の中で装飾的な扱いへと次第に堕ちていく。しかし見方を変えれば、円柱の持つ造形要素としての可能性をその後の建築史の流れの中で展開して示してくれたわけでもあった。ローマ時代になるとコロッセウムや凱旋門に観られるように、バルコニーやひさしを支える円柱が半分壁に埋まって、アーチと共に外壁の重要なアクセントとなっている。又この時代には現在ヨーロッパの広場の至るところに える銅像を頂きにおいた記念柱もすでに現れている。中世期になるとキリスト教会建築において円柱はその可能性の限りを尽くしたかに見える。巨大なドームを支え複合化された円柱や、側廊や、回廊に並ぶ列柱、ファサードに数階並んで教会の顔となる等、ロマネスクからゴシックへと様式が進むにつれて、その機能、寸法、形状素材等の要素が多様化複合化していく。又一方ピサの斜塔に代表される円筒状の建築物も私には円柱が巨大化されたもののように思えた。これらの詳しい調査分析は次回に譲ったものの興味は尽きなかった。

クレタ島のクノッソス宮殿の遺跡に残る、逆円錐形でベンガラ色の不思議な円柱や、ガウディ建築にみられるモメントに従って斜めに支える円柱は、全く異なる造形系列にありながら、力強く始原的な美しさが強く印象に残った。同じく始原的な美しさはトルコのカッパドキアの遺跡にあった。荒寥と続く砂漠に超現実的な奇観を呈する岩壁をくりぬいて、キリスト教徒達の想像を絶する信仰生活の営みの跡を残す数々の聖堂を、蟻のように巡りながらの空間体験であった。広がる緑の平原に、浮ぶ氷山のように立ち並ぶ巨石の群れからは、呪縛的な印象はなく、永遠の時間と空間へ向けてその存在が広がっていく静溢さが感じられた。

 最後にこのような貴重な一年間の機会を与えてくださった関係者各位、研修期間中に御指導御援助頂いた方々に御礼を申し上げます。今後共この制度が実り多いものであることを期待します。

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1980年10月から翌年6月まで,日本文化庁外研修芸術家の派遣制度により,客員芸術家としてハーバード大学視覚芸術センターに駐在した。5月、スタジオで制作したものを中心とした個展がロビーで開催された。

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